わたしはてっきり、数学こそが物理現象を言葉であらわせる唯一の言語だと思っていました。
北野武さんと数学者の対談
先日、NHKのスイッチインタビューという番組で、北野武さんと著名な数学者の方が対談されていました。
それを見て思ったこと・・。
まず、2人の会話は一見話がかみ合っているようで、かみあっていない、と感じました。
数学者の先生は、数学こそが人類の共通言語となり得て、宇宙の真理を解明するためには、その前提条件として数学がないとお話にならない、という論調でした。
が、北野武さんは、ちょっと違った角度から宇宙や数字について語っていました。
まず、日本語の和歌や俳句に用いられる 5・7・5や、5・7・5・7・7の各数字と、その合計はすべて素数になる、ということに気づき、これは何か意味があるのでは?とのこと。
この話を聞いて、これは意図的に設定した数字ではなくとも、人類が心地よく感じるしらべは、自然界に存在するものが反映されてこのようなかたちになったのでは、と感じました。
また、北野さんは円周率を表すπ(パイ)についても疑問をもたれていて、あれは3.14159・・・と続き、割り切れない数字なので、その数式を用いても、実際には完全な円にはならない、ということ。
わたしはてっきり宇宙に存在する物理現象をそのまま表したものが数学だと思っていましたが、正確にはとらえきれていない=数学もやはり人間がつくた言語の一種なんだ、と気づきました。
宗教家と科学者が目指すもの
テレビ番組などで、宗教者と科学者が対談しているのをよく見かけますが、それを見ると、どちらも目指しているものは同じで、「宇宙の真理を解明したい」という一心で、日々おつとめされているようにお見受けします。
ただ、数学を用いるか、別の思想を用いるかで、アクセス方法が違うだけ。
宗教的、神学的アプローチをするには、思考するための言葉が必要ですから、日本人なら日本語を使いますが、それは先ほどの5・7・5の件でもあらわされているように、一般言語と数学は似たようなものかもしれない、という気がしてきたのです。
また、空海のように曼陀羅などの画でも宇宙を表現する人もいますし、音楽も昔から神に捧げられてきたので、宇宙へのアクセス方法のひとつなのかもしれません。
科学も宗教の一種?
宗教を「信じる」
という言い方はしますが、
火が燃えている状態をみて、
火が燃えていると「信じる」
という言い方はしません。
・・・とおっしゃるのは、「宗教を信じるとはどういうことか」の著者石川明人さん。
たしかに、心のどこかではもしかしたら神様はいないのかもしれない、という潜在意識があるので、自分のそう思いたい、という意志を表明したいがために「信じる」という表現になるのかもしれません。
では、科学はどうでしょうか。
今現在科学で解明されていることの多くは、人が実際に見たり経験したわけではないのに、「科学的根拠に基づいている」と言われれば、信じてしまいます。
それなら、昔のラテン語で書いてあって聖職者しか読めなかった聖書と同じじゃないのか、という気がしてくるのです。
聖書にこう書いてあるから、という言い分と、数字で出ているから、という言い分。
気の遠くなるような難しい数式は、一般的には天才と呼ばれるようなごく一部の人にしか解読できません。
だから、科学も信じるか信じないか、という宗教的要素があるのだと思います。
そして、19~20世紀頃は科学信仰が大流行した時代でした。
だけど今、北野さんのように、科学至上主義になりすぎてない?と疑問を抱く人があらわれはじめているような気がします。
科学よりも進んでいる人間の想像力
今ある科学よりも、もっと進んでいるのは人間の想像力だと思います。
北野さんもちらっとおっしゃっていましたが、わたしも薄々、人間が頭で考えつくことは、科学が追いついていないだけで、ほとんどのことが実現可能なんじゃないかと思っています。
たとえば、ドラエモンの道具の「ほんやくこんにゃく」なんかは、もう実用可されています。
きっと、いつかタイムマシーンやどこでもドアなどで、人間は四次元を自在に行き来できる日がくるのではないでしょうか。
でも、その前に、SF映画などでよくある宇宙戦争は、結構現実的になってきた、と感じます。
一言でいうと、アメリカ独立戦争のような感じ。火星に移り住んだ人類の何世代か後が、もう地球人にあれこれ指図されるのは嫌だ、と独立したがり、それを阻止したい地球人VS火星人の戦争になるのです。
ということは、死後の世界なんかも存在するのかもしれないなぁ、と思ったりします。

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